本来の品川を知るためには,地図は脇に置き,この土地を歩いてみるしかないようだ。
北品川駅から南へ伸びる商店街に,かつて「品川宿」という東海道の宿場町があった。ここが本来の品川である。
現在でも,江戸時代からの道幅を保っているらしい。ためしに道の中央を歩いてみると,左右にある店の軒先が,うまい具合に視界へ入ってくる。街道沿いに発展した町ならではの道幅だろう。
品川宿は,東海道五十三次の最初の宿でもあり,最後の宿でもあった。東西の物品が行き交う流通路でもあった。
戦後に新幹線と東名高速ができてからは品川の存在感が薄くなったが,結局は品川駅に新幹線が発着するようになり,羽田空港へのアクセスの良さもあって,品川駅周辺はビジネス街として再開発された。東京・名古屋・大阪が存在するかぎり,交通の要所である品川もまた生き残り続けるだろう。
戦後に新幹線と東名高速ができてからは品川の存在感が薄くなったが,結局は品川駅に新幹線が発着するようになり,羽田空港へのアクセスの良さもあって,品川駅周辺はビジネス街として再開発された。東京・名古屋・大阪が存在するかぎり,交通の要所である品川もまた生き残り続けるだろう。
品川宿だった商店街からすぐ横へ目をやると,何軒かの寺があるのに気づく。そのひとつ,法禅寺にお邪魔する。
境内の案内板によると,天保の大飢饉の際に,貧しい農村から流浪民が品川宿へ集まってきて,そのうち891人が病や飢餓で亡くなった。品川宿の人々は,法禅寺と海蔵寺に彼らを葬った。そして供養塔を立て,名も無き人々の無念を現在でも伝えている。
高層ビル群の谷間には,人々が行き交っていた頃の品川宿が,今もひっそりと息づいていた。
境内の案内板によると,天保の大飢饉の際に,貧しい農村から流浪民が品川宿へ集まってきて,そのうち891人が病や飢餓で亡くなった。品川宿の人々は,法禅寺と海蔵寺に彼らを葬った。そして供養塔を立て,名も無き人々の無念を現在でも伝えている。
高層ビル群の谷間には,人々が行き交っていた頃の品川宿が,今もひっそりと息づいていた。